原子爆弾による被爆の話(続1)


terao10.jpg @レスポンス(00739/寺尾 武治 /自由人 )91/08/06 11:31

原爆の話しを読んでいただき、また久保木先生、佐々木さん、宮瀬君、浦塚さん、石田さん、永野さん、桂木先生、後藤明ちゃん、松村君、清水さん、会津さん、浅井さん、事務局長尾野さんと沢山の方々にはresを有難うございました。
真剣に読んでくれている皆さんのお顔が目に浮かびます。

ホ−ッとしました。
三回にわたって、広島原爆による被爆体験の話しを書き込みました。安堵感?
もう忘れて良い‥‥、忘れたい。

今日は広島原爆記念日です。先程黙祷をしました。
そう8時15分でした。原子爆弾なんて知りませんでした。なんでも強力な新型爆弾とのことで、情報の全く入らない、新聞もラジオも何もない当時は「ピカ、ドン」と呼んでいました。しかし私は「ド−ン」という音は全然聞いていません。一瞬頭の中は空白だったのでしょうか。

ああ、あれから46年目ですか。平和の有難さに感謝しています。二度と繰り返さないで下さい。今日まで生かしていただきました。世間にかりた借りを、何らかの方法でお返しできたら嬉しいです。

日田「天領新聞」どうぞお使いください。松村君、群馬の「*渡良瀬NET」塩崎さんには先程電話で「転載結構です、どうぞお使いください」と連絡しました。桂木先生どうぞ学生に読ませて下さい。お役に立てば嬉しいです。
書き込みを終わり、ホ−ッとした739 寺尾 です

*注 桐生市を中心に市民による運営がなされているCOARAと同じような形態のパソコン通信ネットワーク

doom2.gif 米軍撮影
広島商工会議所の屋上からみた原爆ドーム(元広島県産業奨励館)。
強烈な爆圧で木端微塵となる。補強工事をした今日の原爆ドームと比べるとかなり印象が異なる。



@レスポンス 松村 亮司 91/08/07 02:02

寺尾先生、渡良瀬NETには塩崎さんの手で、先生の文章を転載させていただきました。

渡良瀬NETの会長でもあり、またCOARAのメンバーでもあります久保田さんをはじめ、何人かの人から、先生の文章に対するご感想が寄せられてきていますので、下記に転載させていただきます。



渡良瀬ネットより寄せられたメッセージです。

レスポンス  小川広夫(渡良瀬ネット) 91/08/06 16:01

 コアラより原爆体験の記を読んで

 46年前に被爆した方の生々しい手記を読ませて戴き、あまりのすさまじさに目をみはるばかりです。

 性こりもなく原爆の地下核実験をくりかえして放射能をまきちらす国ぐにのある事を、私たちは地球人としての純粋な気持ちで反対したいとおもいます。

 世界中の学者たちも核実験による放射能被害で癌で死亡する人が急激に増加すると警告しているではありませんか。

 これはイデオロギ−などの問題ではなく現実の問題だと私はおもいます。
                   WAN 1080  よしきり



レスポンス  塩崎泰雄(渡良瀬ネット) 91/08/06 18:12

松村さんが,連絡を取ってくれたので,直接,大分の寺尾先生から御電話をいただきました,はじめてのことなので驚きましたがパソコンが取り持つご縁ですから,今後とも宜しくとご挨拶をいたし,そうそうに掲載させていただきました.

 松村さんどうもありがとうございました.

 塩崎



kubota.gif レスポンス  久保田芳男(渡良瀬ネット) 91/08/06 23:04

松村さん塩崎さん有難う

寺尾 武治先生

貴重な原爆体験記を読ませていただき、今さらのように恐ろしさを知りました。
私も先生と同じ年代で、当時は前橋医専2年に在学中でした。(現群大医)私は桐生市から電車で通っていたので、実際には戦争の悲惨さを身をもっては経験しておりません。
桐生市は爆撃にもあわず、前橋空襲の時も桐生市で防空壕から出てみると西の方にパラパラと火の粉のように焼夷弾がばらまかれ、まもなく真っ赤になって見えるのを目撃しました。30キロ近く離れているのに、空が真っ赤に染まっていました。
電車も不通で、数日後近くまで電車が通るようになって前橋に行くと、一面が焼野が原で、親戚を尋ねても疎開先の書いた木札が立っているだけで、焼けてみると、非常に狭いところで、かなり先の筈のところもすぐ近くなのに驚きました。焼ける前は鉄筋と思っていた親戚もモルタルだったので、瓦礫の山になっているだけでした。
学校まで辿り着くと、北端にあったために焼けずにすんでいて、講堂は救護に使ったようで、床は血潮で染まっていました。
解剖教室には監視哨で機銃掃射で死亡した防空頭巾をかぶった死体や、何人かの死体が並んでしました。かなり多くの市民が死亡しております。幸い200名近い生徒は幸運にも皆無事でした。
これだけでも私にとっては地獄でした。それなのに原爆を直接被爆されている寺尾先生の手記は私どもにとって、とても感慨の深いものです。
爆風が波の押し寄せるように、中心部から広がってきて時間差があったなどとは全く知りませんでした。
当時のタブロイドの新聞には新型爆弾が広島に投下されたと書かれたりラジオでも報道されていましたが、壊滅的な打撃を受けたことは知るよしもありませんでした。
その後次第に被害の大きさが伝わり、放射能による被害なども後から知りました。その後のご苦労も随分と大変だったろうと推察します。
原爆の実験も繰り返して行なわれており、平和利用の分野でもチェルノブイリの事故や、それらの廃棄物の処理などで放射能汚染はとどまるところがありません。
原水爆禁止運動にしても、ともするとイデオロギーが先行し、全人的な立場での運動になりにくいことにも歯痒さを感じます。
人間は愚かなものです。目先の便利さに目を奪われて、環境を汚染し、人類の破滅に向かって進んでいるような傾向を恐れています。
先生の書き込みを見て、パソコン通信などを通じて環境破壊などを最小限度にとどめなければと決意を新たにしております。
長文のご掲載に心からお礼を申し上げます。

       渡良瀬ネット 久保田 芳男(WAN0005)



@レスポンス  尾野 徹 91/08/07 06:16

tooru.jpg 最近、子供(小学校3年生)が戦争の意味、原子爆弾のことなどがわかったらしく、広島に行ってみたい、長崎に行ってみたい、、、等と言い出し始めました。学校の平和授業(?)というので教えてもらったらしい。
 で、「あれ? 広島に連れて行ったこと覚えてないの? 2年前に行ったじゃない」 と言ったけれど、どうも記憶がないようす。
 そういえば、私も小学校3年の時に初めて母親に連れられて、広島原爆記念館に行ったのですが、仰天してしまって、ホントに地獄を見てしまったような気持ちになって、それ以降、恐くってしばらくは一人で眠れなくなってしまったもんです。
 私の子供もその歳になったんだなぁ。

そして、一昨年だったかわが家に半年程住んでいたアメリカ娘のシャロンを連れて行った時には、彼女もホントにショックだったらしく、それまでコミュータ飛行機に乗ったりではしゃいでいたのが、急におとなしくなってしまってた。そして、むさぼるように、ほとんどの資料に目を通していました。
昔、コアラ会員だった秋葉さんが、自費でアメリカのローカルな地域に住む新聞記者を毎年広島に呼び続けたことの意義が初めて理解できたもんです。しかも。そのことが“秋葉プロジェクト”と称され、多くの人から賞賛された意義も理解できたような気持ちになったし。

 そして、昨年の浦塚さんの終戦直前の宇佐駅近くでの被災者を目撃された話
 今回の寺尾先生の話。
 以前にも増して戦争の恐さ、悲惨さを身近に感じます。

 でも、戦争は全然無くなりませんねー。今もテレビニュースで戦争の報道がなされている。
 世界のあっちこっちに、その国が経験した戦争の悲惨さを伝える記念館ができるとよいのに。バクダットにも。
 経済大国になった日本が資金援助するのもいいな。そしてその片隅には、広島の原爆記念館の分館を用意するとか。。。。。



@レスポンス 中村 ともみ 91/08/07 09:55

 寺尾先生 貴重な体験ありがとうございました。

最初は とまどってしまいましたが 真実に目をそむけてはいけないと勇気を持って読みました。

子供の頃 修学旅行で行った原爆記念館では ショックを受けて吐いてしまったのですが、あの時の感覚同様の 悲惨な つらく 悲しい 内容でした。

 きのう原爆の日 広島では平岡市長が平和宣言を読みあげたあと 初めて日本の植民地支配や侵略戦争について謝罪の言葉をのべたそうですが すばらしい事だと思いました。憎むべきは戦争 それ自体です。

私達がこれからも守っていかなくてはならない「平和」 又「核廃絶」への意義を日々自らの心の奥底に 深く問かけ続けるべきだと思っています。

 又 寺尾先生の心の叫びを コアラのみなさんが 心から心へと確かに受け止めていっている姿にも感動しました。

 寺尾先生本当にありがとうございました。



uratuka2.jpg@レスポンス 浦塚政子 91/08/07 14:54

  寺尾先生 有難うございました

   昨日朝、8時15分サイレイの音と同時に、黙祷をしました。 先生のお姿がスーット浮かんで参りました。 惨い惨い戦争でしたね。そしてあれから46年間、つらいつらい「生」との戦を経て・・・ その苦しい想いを、よくぞ語って下さいました。本当に有難うございました。

  どうかもう、みんな、みんな、忘れて下さい。

 こうして、コアラをはじめ、多くの方々が、先生の貴重な体験記を熟読してくださっています。きっときっと、この方々が、「おろかな戦争を、核の撲滅を」、次の世代へと語り継ぎ、人類の平和の為に努力して行って下さるものと信じます。

 日田の「天領新聞」さんは、先生にお許し頂けましたこの体験記と、国東オフラインの時の写真とを大事に大事に持って行かれました。先生のお友達の、藤陰高校の校長先生、昭和女子高の校長先生を始め、日田市民の方々がその掲載を待ち望んでおられます。

                                ばばコアラ



@レスポンス 吉住圭司 91/08/07 19:10

余計な事を書いて、怒られそうですが、
確か大分市も原爆投下候補地リストのひとつとしてあったはずでしたヨネ。

8月9日長崎市が被爆した時
one of themのうちのthemの中にあったと聞いた事があります。

理由としては、
今のホーバー乗り場あたりが海軍航空隊の基地だったということと、
舞鶴高校周辺が海軍工廠だったこと。

この話を大分に住んでいる時に知ったのですが、
なんだかその時、被爆という事実を非常に身近に且つ切実に感じてしまった
ことを憶えています。
                               YUPA



渡良瀬ネットからの転載です

レスポンス. 保谷真知子(渡良瀬ネット) 91/08/07 11:52

寺尾さん、松村さん

 原爆体験記、読ませていただきました。いままでの知識とは、また違った事も知ることができました。46年たった今でも、血を流し続けている寺尾さんのお気持ちを考えると、あだやおろそかには読めない気がしています。貴重なお話、本当にありがとうございました。渡良瀬ネットに転載のお話を進めて下さった松村さんにも、お礼を申し上げます。

 小川さんや久保田さんは、戦争を体験してきた世代の方です。その言葉に比べれば、私の書くことなどいささかの重みもありませんが、それでも遠く離れたこの地から、勇気を持って発言して下さった寺尾さんに、一言お礼を言わずにはおられませんでした。考えてみれば私の父も、満州からラバウル等々、転戦してきたはずなのですが、軍隊での思い出話はしても、戦争の実体験は聞いた事がありません。多くの戦友をなくした悲 惨な思い出など、話したくもなかったのでしょう。

 まして原爆に直接遭われた寺尾さんにとって、口を閉ざすしかなかった、重い46年だったのでしょうね。あの千代の富士のお父様も、46年間決して被爆体験を話そうとはしなかったと聞いております。家族にも隠し、たぶん親友にも隠し続けて生きてきたのでしょう。それはもちろん、あまりの悲惨さに話せなかったという事もありましょうが、実際に差別への恐れさえあったのではないですか? 我が身の故でない被爆なのに、 当時は「ピカがうつる」などと、間違った認識で遠ざけられた事もあったと聞いております。被爆の悲惨な体験のその上に、またご苦労を重ねなければならなかった御心中、お察しするにあまりあります。先日「死の刺」でしたか(間違っていたらごめんなさい)、ビデオを見ましたけれど、私などには同情する権利もないなあ、と思いながらも、涙なくして見続ける事はできませんでした。

 また暑い夏、父が戦友会に出かける夏、終戦特別番組が流される夏がやってきました。「もう忘れて良い‥‥、忘れたい。」と寺尾さんは書かれていますが、本当に忘れていただきたい気持ちでいっぱいです。もちろん片方に語り続けていただきたい気持ちもありますが、誰がそれをお願いなどできるだろうかと思うのです。

 これからは私達が子供達に語り続けていかなければなりません。体験していない私達に説得力などないかもしれませんが、寺尾さんや浦塚政子さんのお話が、きっと役にたってくれることでしょう。ありがとうございました。

 松村さん、何度かお話だけは聞いているのですが、その浦塚政子さんの*お話も、転載していただくわけにはまいりませんでしょうか? 去年のお話のようですし、無理なお 願いなのですが、ぜひ読ませていただきたいものだと、前から思っておりました。これからの世代のためにも、貴重な体験を一人でも多く共有したいと考えています。

 私も今、パソコン通信を始めてよかったなあと、心から思っています。

*注 浦塚政子さんは寺尾先生がこの手記を書いた前年の1990年に、ご自分の学徒動員の際の戦争体験談をCOARAで発表されました
 



@レスポンス 川辺正行  91/08/08 02:06

kawabe.jpg寺尾先生、ありがとうございました。

私の家内( 川辺直子)も広島出身で、当時は小学校でしたので、 山奥に学童疎開していました。
山奥から不気味に立ちのぼるキノコ雲を見て、
どうしたのだろうと話し合っていたそうです。

両親も広島市内から疎開していましたので、家族全員難を免れました。
家内の兄と姉は、広島市外に寄宿し、学校に通っていましたので、
原爆投下後の広島市内で、放射能を浴びたそうです。

家内の同級生は、ほとんどの両親が広島市内にいたため、
孤児になって、ちりじりばらばらになってしまったそうです。

家内の両親は、幸いにも無事で、今広島市内で、健在です。
ときどき別府の原爆センターに、泊りにきます。
そんなこともあって、私も5月に、オランダの学生4人を広島へ連れて行き、
原爆資料館や、原爆ドーム、平和公園を案内したのです。

西のアウシュビッツ、東の広島・長崎・・・・・・・・
人類の愚かなおこないのモニュメントが、厳然と存在します。
しっかりと考えたいと思います。