祖父の被爆体験

市野瀬 香苗

1998年6月1日

大分県南海部郡弥生町にお住まいの市野瀬香苗さんから、ご自分のお祖父様の被爆体験談をお寄せいただきました。ここに、ご紹介致します。


初めまして、大分県弥生町に住む市野瀬と申します。
実は、私の祖父も広島で被爆しておりまして、どうしても他人事には思えずに拝見させていただきました。

私の祖父は当時仕事の関係で広島に住んでいたそうです。あまり思い出したくないらしく、一度しか話しをしてくれませんでした。 お陰さまで祖父はまだ元気ですが、背中に残った刺さったガラスの跡が戦後50年以上経っているのにもかかわらず、消えません。
私が一度だけ聞いた祖父の話しは、忘れることができません。
私は祖父から聞いた話しを次の世代に伝えて行こうと思っています。

最近、父の兄の50回忌があったのですが、その時に祖父が「あれはまさに地獄の様だった」と言っておりました。 父の上には二人兄がいたのですが、原爆の影響か分かりませんが二人とも幼くして亡くなったようです。 父が初めて大きくなってくれた子どものようでした。

祖父は当時は原爆ドームのすぐ裏手の方に住居を構えていたそうなのですが、会社に出勤していたために何とか死は免れたようです。 祖母は、原爆の落ちる2日前に大分県津久見市の方の実家へ用事があって帰っていたため被爆は免れました。
原爆が落ちる一週間くらい前に、アメリカ軍の方から「広島へは爆弾は落としません」と言うビラが空からばらまかれたそうです。 祖母は津久見に帰らなくてはならない日に、近所の人にそういうビラをまいてきたから広島は安全だから帰らないほうがいいよと忠告されたそうです。

祖父はその日、会社へ出勤していました。 会社の建物の2階にいたそうです。
窓を背にして立っていたわけですが、ものすごい光りが見えて振り返って見ると、建物が将棋倒しのように倒れてくる光景が見えたんだそうです。
次の瞬間、気付いた時には建物はなくなり周りは何にもなくなっていたそうです。
祖父は窓の間に挟まれたために、壁につぶされることなく助かったのですが、ガラスが背中に刺さり、両隣にいた事務の女の方と同僚の方は壁に潰されたらしく、その二人の血が髪の毛や体についてガチガチになっていたそうです。

祖父はこのままだとアメリカ軍が上陸してくると思い、誰とも分からない人と二人で一週間ほど山に隠れたそうです。 山へと向かう途中に見える川は死体の山となり、血塗れの人もいて、それは本当に地獄絵そのものだったそうです。 山から降りて自分が住んでいた家に戻ってみると跡形もなく、何か持って帰れるものはないかと探したところ唯一ラジオだけが残っていたそうです。 祖父はそのラジオを持って、そのままの恰好で汽車に乗り津久見へと帰ったんだそうです。
祖母は保険会社の人から祖父の保険料の当時10円を受け取ったんだそうです。 そのラジオは父達が子どもの頃に原爆ラジオと呼んで使っていたそうです。

戦争が終って50年以上経っていますが、祖父は毎年別府の原爆センターへと検診に行き、父達兄弟も4年に一度検診へ行きます。
祖父の記憶の中からこの記憶は消すことが絶対にできないものでしょう。
できることなら、私たちの記憶の中からも絶対に消してはいけないものだと思います。

今のインド、パキスタンの件をテレビのニュースで見ると本当に悲しい思いで一杯になります。
どうして多くの人を殺してしまうようなものを平気であんなに作って、実験するのでしょう。 父は人の命があれだけ亡くなったんだから、植物や昆虫、飛んでいる鳥や犬や猫の命を加えると一体どれくらいの命があの瞬間で亡くなってしまったんだろうって考えるって言ってました。

みんなの記憶の中から、この記憶を消さないためにも、これからも活動を頑張ってください。
私の祖父ももう84歳になりました。 今では時々「おじいちゃんの体の中には原子力発電所があるから元気なのよね」なんて言ったりもしてます。

私が知っている祖父の体験談は書きました。
おはずかしいですが、この文章をぜひ海外の方に読んでいただきたいものですね。



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