読者からのメッセージ
その1に「8月6日 宮島を出て、いつものように」とあります。 多分、8月6日の朝を迎えた時は、 寺尾先生の文章を読んで、涙で途中からまともに字が読めなくなりました。 今もどこかで戦争があり、核実験が繰り返されています。 この文章がcafeに書き込まれた時に、リアルタイムで読みたかったです。 寺尾先生とお話したかったです。 寺尾先生、辛い思いを文章にしていただいて、ありがとうございました。 そうですね 木村さん、私も同感です。 松村さんにここに再UPしていただき、6年前へ イ エ、51年前へと、私の心はタイムスリップ致しました。 この記録をプリントファイルして残すことにしました。 先日、友人の一人が、寺尾先生のかっての教え子であることが判り、先生の御訃報と共にこの御遺稿の事をお知らせしました。先生が原爆に会われたことは知っていましたが、このプリントをお渡ししたら抱きしめて帰りましたが、ご主人と一緒に何回も何回も繰り返し読んでいらっしゃるのだそうです。涙をためてお礼を言われました。 此の国に、こんな平和がおとづれるなどと、あの時誰がどうして想像出来たでしょう。私達は、あの戦争の犠牲者となった相手国や自国の何千万の尊い命と引き替えに得た平和で有ることを、ゆめゆめ忘れてはいけません。 寺尾先生の勇気有るこの「原爆体験記」こそ、コアラ誕生以来の最高の価値有る発言だと思います。木村さんのおっしゃっているように、もっと沢山の人達の目に留まる事を祈っています。 松村さん、本当にありがとうございました。 浦塚 今日は8月6日です。まだ自分でうまく言えませんが、思ったことを書かせていただきます。 松村さんに寺尾先生の体験記に関して、お話をお聞きしてすぐに読ませていただきました。 変な言い方になってしまうかもしれませんが、私は通信をやっていて本当に良かったと感じました。 これが、一方的に情報が送られてくる新聞、テレビでは、これほどまでに心のなかには響いてこなかったでしょう。 今年は原爆投下から51年目です。しかし50年という節目の昨年と違い、ほとんど関係の記事を目にしたり、話題にのぼることがありません。 なにか区切りがついたという感じさえします。 被爆された方々は、まだ苦しんでいます。 まだ人々の心の中から消えてはいけないことではないでしょうか。 寺尾先生の手記に関しては、何度読んでも涙が出てきてしまいます。 松本志磨子(shima) このメッセージは永野さんのホームページを見て海外から寄せられた反響です 永野さんの「お盆」のページで「寺尾メモ」へのリンクを知らせてくれてありがとうございます。学校で1時間かけて「原子爆弾による被爆の話」を読みました。 故寺尾さんが被爆当時のことを思い出すたびに感じたであろうパニックを本当に理解できるのはおそらく被爆者(または戦争犠牲者)のみでしょう。私は寺尾さんがその体験を人に話すことによって最終的には心の安らぎを得られたことと思います。私もサイレンの音やプロペラ機の爆音を聞くたびに不安に駆られ、身の毛がよだつ思いをする人々を知っています。 誰もがそう願うように私も人類が二度と戦火の地獄に突き進んではならないと考えます。 だからこそこの教訓を常に繰り返し伝えなければならないのです。さらには私たちは戦争によって財産や権力、名誉などを得ようとする人がいまだに存在することを決して許してはなりません。 このメッセージは永野さんのホームページを見て海外から寄せられた反響です 永野さん、あなたのホームページに松村さんのサイトへのリンクを張ってくれて感謝しています。故寺尾さんの「原子爆弾による被爆の話」を読みました。 私はどのような理由があるにせよ、あのような恐ろしいことをしてはならないと強く思います。この残虐行為を世界中の人に知らせ常にそれを思い起こさせるべきと考えます。 このメッセージは永野さんのホームページを見て海外から寄せられた反響です 寺尾さんは結局もっと書きたかったのだけれど、耐えきれずに止めたのか、それとも、本当にもうあれ以上書くのが嫌になって止めたのか、今となってはわかりませんが、私個人的には、もう少し書いてあったらと思っています。しかしあれだけの描写でも十分原爆の悲惨さが伝わってくると思います。でもやがては世代が交代し被爆者自身の口から直接聞けなくなるともう歴史の一ページとしてしか扱われなくなるかと思うとやはり、悲しくなります。 このメッセージは永野さんのホームページを見て海外から寄せられた反響です 寺尾メモに関する私の考え 私は故寺尾先生の手記を読んでいろいろと感じ、また考えされられました。最初に私は体験した恐怖感がどんなものだったかを、ついでこのような信じがたい状況の中で寺尾さんがショックで感覚が麻痺してしまっただあろうことに思いを馳せました。さらには原爆被災者が耐えてきた消すに消されぬ精神的、肉体的傷痕について考えました。私は被爆者の苦難、痛みに心から深い悲しみを感じます。私はいままで長い間寺尾さんの体験について考えてきましたが最終的に戦争そのものについて考えざるを得なくなりました。寺尾さんの苦しみはそれが天災ではなく、人間が周到に準備した行為、すなわち戦争によってもたらされたものだけにいっそう耐え難い苦痛だったのです。ある人々が他の人々を傷つけ殺害しようと意図することが破壊と苦痛の原因となるのです。この異常な状況を「戦争」と呼んでいます。見るも恐ろしい戦争行為の結果を記述することにより寺尾さんは平和の大切さを私たちに教えてくれたのです。 しかしながら平和な世界を創り出し、それを維持してゆくためには私たちはなぜ戦争が起こるのかを理解する必要があります。一体、何の必要があって人を殺すのでしょうか。どんな種類の人間が他人を殺害するのでしょうか。この問いかけに対して既に二千年以上も前に答えが出されています。古代共和制ギリシャの哲学者プラトーは師ソクラテスの「正義」社会の探求について著述しています。ソクラテスの到達した結論は、最も良い社会とは贅沢さのない質素な社会である、というものです。人の欲望を掻き立てるようなものの無い質素な社会は常に平和であると述べています。この考え方に接して私はスペインの南米征服を思い起こしました。南米に黄金があったばかりにある文明全体が消滅し、何百万人もの生命が失われたのです。これはすべて人間の欲望を満たすために行われことです。 ソクラテスによれば人間の発達には三つの段階があります。私はこの発達段階という考え方が人が他人に対して暴力を振るう傾向をよく示していると思います。第一の段階は生存のためのものです。つまり、食物、住居、衣服、および子孫を残すことです。これらはいずれも肉体的なもので、そこでは自分のことにしか関心が払われません。この段階にある人は自分の快適さや安全を脅かす者を平気で傷つけます。 第二の段階は精神的な目覚めです。この段階では人は他人からの尊敬や賞賛を集めることを目的に行動し、それが名声、名誉、および富裕といった形になります。この段階では人間は自己の生存のために他人を殺害することはありませんが、富と名声を得るためには戦争をおこすのです。 第三の、そして最終段階は理解と理性です。知的な、精神的な段階です。ここに到達した人は自己賞賛の愚劣さを認識しています。この段階に到達して初めて人は他人の悩みに対して哀れみを感じ、同情し、自分をすべての人々と結びつけて考えるようになります。この段階では人の行動規範は最大多数にとっての最大利益です。他人に危害を加えるような可能性はほとんどありません。これこそがソクラテスの求める哲学を持った理想社会の段階です。 以上述べたことから考えてみると寺尾さんの体験は第一段階の人間が第二段階の政府に支配された必然的な結果であることが明白になります。つまり、無知な人々が無知な指導者を選ぶのです。愚かな、追いつめられた民衆がお前たちを苦痛から救ってやるぞと言われて、不適切な破壊主義的指導者を選んでしまうであろうことは想像に難くありません。1930年代に方角を失い混乱のなかにあったドイツの民衆はその解決の糸口をアドルフ・ヒットラーに見い出しました。この悲劇的な判断の誤りの結果、数百万人の人々が命を失いました。当時人々にもう少し判断力があったらヒットラーのユダヤ人に対する憎悪の念やゲルマン民族の優位性などという馬鹿げた主張には共鳴しなかったでことでしょう。 したがって教育こそが平和を築き推進するために必須の条件となります。しかし一般的な論議ではほとんど役に立ちません。自己反省、自分自身への冷静な問いかけ、責任感、および勇気ある行動といったものの価値を認めてこそ理性ある考え方や自覚が生まれてきます。残念ながら今日の最先端といわれる社会形態は生産と消費に全面的に依存しています。人生には物質的な充足や個人の利益などよりももっと大切なものがあることに気付いている人はほとんど居りません。 しかし物質至上主義から脱却することは可能であるばかりでなく、それは大きな喜びをもたらしてくれます。これにより愚劣な想像上の「必要なもの」の呪縛から開放されるとともに人を助けることの極めて大きな充足感が得られます。私たちの中には大哲学者のように脚光を浴びてその存在感を享受するような人はほとんど居ないでしょうが、世界を理解する見方を改めるべく行動し、周りの人々にも同様にするよう手助けすることは誰にでもできます。お互いに助け合い、配慮することが全地球規模で最重要事項であると認識されるようになれば世界平和は容易に実現するでしょう。 朝日新聞朝刊9月22日を読みましてアクセスしました。 老人保健施設に勤めている関係で被爆者の方とのかかわりも日常の生活の中にあります。 私の祖父も広島に駐屯していた陸軍曉部隊の生き残りです。原爆手帳を取得する要件を満たしていたようですが、敢えて取得しなかったようです。孫の私には詳しい話しをしてくれませんが、戦争の体験は語り尽くせないものがあると思います。 有意義な活動と思います。これからも頑張って下さい。 私は、奈良県で教員をしております、神田 大吾 というものです。 私は広島県の生まれで、祖父は被爆しております。先生のお話にあった工場と爆心地からの距離がほぼ同(と思う)宇品と言うところの工場で被爆しました。 それで今回、寺尾先生のお話が、まるで私の祖父の話のようでとても冷静によんでいられる状態ではありませんでした。祖父は、死ぬまで被爆体験を家族に詳しく話さなかったようです。 明日から、また6年生27名といっしょに広島への修学旅行の取り組みを続けます。 神田 大吾 28歳
松村さん 先日の「寺尾先生の原爆体験談を拝読して」を転載していただいて結構です。 今日、隣のクラスの子が、戦争に関する聞き取り調査として、聞く人がどうしてもいなかったのでインターネットで検索して同じ寺尾先生の体験談を自分の感想といっしょにレポートとしてまとめているのを見ました。 その隣の先生も、この体験談は生々しく読ませてもらったとおっしゃっていました。 子どもたちにどれだけおろせるかということについては、大変不安ですが、がんばってみます。また、報告させていただきます。 神田 大吾 from 奈良市 このメッセージは永野さんのホームページを見て海外から寄せられた反響です 松村さん、 寺尾先生の手記とその反響を読んだ後、すぐに松村さんにお便りを書こうと思いながら今日まで出来ませんでした。改めてこの年末に寺尾メモを読み返しました。 何度読み返しても涙が溢れてきます。と同時に心休まる思いがして人生を振り返ることができました。年の瀬はこのようなことをする時であり、生かされていることに感謝し私達が祝福されていることに思いを馳せる時でもあります。 松村さんのページを拝読して世の中には善意の人々が居ると同時にそれを悪夢に変えてしまう人々も居ることも分かりました。これこそが故寺尾先生がご自分の生涯を通じて訴えたかったことだったのでしょう。寺尾先生のお言葉は人々、特に若い人に対する優しさと慈愛に満ちており、本当に素晴らしい記念碑です。私は先生の魂もとても喜んでおられると思います。先生をはじめとする方々のおかげで私は自分で考え、感じ、そして一人の人間として成長することができました。 私はニューヨークで外周り、旅行、接待といった多忙な生活にあけくれています。このメモワールのようなものを読むことは私にとって何を優先すべきかというバランス感覚を保つのに役立っています。これもあなたを始めとするコアラの皆さんのおかげです。 皆様方が健やかでよい新年をお迎えされますよう、また良いお仕事をされますようお祈り致します。 Candace Veth 編集者より返信 97/01/01
1995/01/02 松村さん、 丁重なメッセージとともに松村さんのお考えを聞かせて頂きありがとうございました。 私は時としてこの世界は非常に住み良いところばかりではないと思うことがありますが、寺尾先生のメモやそれに寄せられたレスポンス、そして松村さんからの私へのメッセージなどを読むと、良い人がたくさん居ることが分かり、心温まるものを感じます。 善は悪から生ずることもあるのです。寺尾先生は高価な代償を支払いましたが御自分の手記を書くことによりこの世に善を残されました。先生はそうすることでどれほど多くの人々の心を一つに纏めてくれたことでしょう。また私達に人生について考えさせその価値を気付かせるとともに核兵器がいかに愚かなものであるかを教えてくれました。 私は、寺尾先生が世の中がコンピューターの時代になりCOARAの人々に巡り合うまで、御自分の経験をお話にならなかったのは、神様がそうさせたのだと思います。 寺尾メモをお知らせ下さり、改めてお礼申し上げます。 私のメッセージ、どうぞ御自由にネットに載せてくださって結構です。なんと名誉なことでしょう。このすばらしいニュースを明日事務所に行って皆に話そうと思います。 1997年がよい年でありますように。 今後ともお便り下さい。 Candace Veth |