広島、長崎、そして韓国

関根千佳

1999年4月18日
関根です。
被爆県長崎、かつ基地の町、佐世保の出身です。

小学校5年の遠足で原爆資料館に行きました。炭化した子供の遺体を見て、お弁当が食べられなかった記憶があります。

佐世保は引揚者の町でもあり、基地もあり、多くの外国人が住む、一種租界のような雰囲気があります。子供の頃から、いろんな国の人と遊んでいました。
その後、原子力船むつの寄航もありました。原子力について考えることも多かったと思います。

会社に入ってすぐ、IBMのアルマデン基礎研究所のDB研究者と仕事をする機会があり、彼に東京案内をしていたときです。
「出身地はどこ?」と聞かれてあっさりと「長崎よ!」と答えたのです。

しばらく反応がなく、不思議に思って振り向くと、彼が泣いているではありませんか.
「君の親戚は、だれもけがをしなかったのかい?・・・僕は、科学者として、人間として、恥ずかしいと思う・・・」
そういって、わっと泣き出してしまったのです。

もちろん、年齢的にみて、マンハッタン計画に参加したはずはありません。

そのとき、私は、科学技術にたずさわる人間は、歴史に責任をもつのだと自覚しました。
それは今でも自分の基礎となっています。

その後、広島にも行きました。多くの韓国人が被爆したことも知りました。

韓国を初めて訪ねたとき、韓国人の友人に、どうしても連れて行ってほしいと頼んだ場所があります。独立記念館です。
「日本人はまず、いかないよ」
「だから行きたいの。一人ではきっと入れないもの」

この2千年の、日本による侵略の歴史を見るのは、決して気持ちのいいものではありません。でも、一度は見ておかなくてはならないと思いました。
沖縄の南部戦跡のようなものです。
ここでも、やはりその後はしばらく、ものを食べる気がしませんでした。

長崎も、広島も、沖縄も、韓国も、アウシュビッツも、すべて、自分にかかわる人々が引き起こしたものだという気がします。加害者も、被害者も、同じ人類の一部です。

すべての人間は、人間の社会と、その歴史に対して、等分の責任があると思います。

伝えること、受け取ること、考えることを、続けたいと思います。