読者からのメッセージ

Part5


マールース・ヴァン・デル・ヴァルク オランダ 99/03/04

私はオランダの17才になる女学生です。このたび、寺尾先生のお話と読者からの反響を読みました。ショックでした。原爆がこんなに悲惨なものとは少しも知りませんでした。

私達は学校で第二次世界大戦について多くのことを学びましたが、それはいずれも西欧側から見た歴史でした。オランダについては私達の国が大戦中、ドイツに占領されていたということしか教わっていませんでした。ですから、私達はこの戦争にはもう一方の側があり、そこにも罪のない人々が沢山住んでいたのだという事実を忘れていました。

ですから私は、寺尾先生の記録はこれからも語り継がれ、あの戦争は誰にとっても非常に悪いことであったということを皆が学ぶ機会を提供してくれることが大切と確信します。

私達の歴史の時間では原爆については触れられることさえありません。教科書にも原爆の記述はたった一行書いてあるだけです。なぜこんなことになっているのかは分かりませんが、これではいけないと思います。

私は原爆について先生と話し合いました。先生もわたしの考え方に賛同してくれました。
私達はこれからこの現状を変えて行くことにしました。なぜなら、あのようなことは二度と起こってはならないからです。私は皆にあのとき何があったのかを知らせます。これには長い時間がかかると思います。私は将来、歴史の先生になりたいのですがまだ卒業までに6年あります。しかし、教職についたらすぐにでも第二次世界大戦の末期に起こったことを生徒に教えようと思います。

当面は寺尾先生の記録を歴史の時間にみんなで討議しようと思っています。そして私達がこの記録から何かを学び取り、皆がこのようなことは二度と起こしてはならないということを理解したいと考えています。これはほんのちいさな小さなスタートに過ぎないと思いすが、いつかは始めなければならないことなのです。そうすればいつの日にかこの世界が誰にとってもより安全なものになるでしょう。

Marloes van der Valk (オランダ)


ポール・スタンレイ オーストラリア 99/03/16

私はこのように深く感銘を受けたサイトに出会ったことはありません。寺尾先生 の記録を読み、いま私の頬は涙で濡れています。

私はいま核科学を専攻していますので原子がどんなものであり、それが使い方に よってはどんな力を持つことになるかをよく知っています。

このたび、このようなウェブサイトに出会い私は今後、何をなすべきか、厳粛に 考えてみたいと思います。何と言ってよいのかよく分かりませんが、いま私にで きることは、科学上の発明が戦争に転用されてしまい、その犠牲となった人々に そっとお詫びすることだけです。

寺尾先生と同じ記憶を持っている方々は他にもいらっしゃるでしょう。それらの 記憶は日本国内に留めることなく、全世界の人々に読んでもらわなくてはなりま せん。唯一の被爆体験はこのような悲しむべき出来事を二度と繰り返さないため に語り継がれてゆかねばなりません。

私のこのメッセージはもう寺尾先生には届きませんが、そうせずには居られなかっ たのです。私だけだなく、私達全員のために泣き叫びたい思いです。

Paul Standley


ブリアン・ブーザー U.S.A. 99/05/12

寺尾さんのサイトに載っている被爆者の手記を読みました。私はあらゆる人々がこの手記を読み、そしてこのような武器の使用について考えて欲しいと思います。

現在、依然として核兵器を持とうとする国が広がっていることを懸念する人が私を含めてたくさんいます。中には、世界中のすべての国々が核兵器を保有するようになれば必然的に平和がもたらされると考える人もいますが、私はそれは破滅に至る道だと思います。

人間は破壊本能を内臓しているのです。私自身はこのような兵器は決して使うまいと確信しているのですが、わが国はそれを使用してしまったのです。私はこのような兵器で他人を殺傷するくらいなら私の命を提供するほうがましです。私は私の国が結果的であったにせよ犯した大きな過ちを事前に予測できなかったことを悔やみます。

平和がありますように。

Brian Boozer


ロッド・パール オーストラリア 99/06/25

私はロッド・パールというもので、オーストラリアのアデレードに住んでいます。今回、寺尾先生の記録を読み深く感動しましたのでここに筆を取った次第です。

私はいま、本を執筆中です。これは戦争の生存者に関するもので、現在まで7年間以上にわたって資料を収集してきております。世界中の多くの戦争体験者にも会い、またその方々をお招きして、戦争というものが人生をどのように変え、どのような影響を与えたかを調査してきました。

ある一つの国民にとって、戦争の記憶というものは戦争で亡くなった人々を追憶することであるのは事実でしょう。その記憶の中では戦争はすでに終わっているのです。しかし、日常生活の中でいまだに戦争の記憶に苦しんでいる退役軍人や戦争体験者もたくさんいるのです。この苦しみはある意味では戦争犠牲者のそれにも劣らないものであり、心の中の葛藤は終わる事がないのです。話さなければならない言葉がまだまだ残っているのです。

戦争が終わって、それが人の心の中ににどのような傷跡を残したかについて書かれた本はほとんどありません。この傷は平和条約が結ばれたからといって癒されるものではありません。人の生活、とりわけ人の心は戦争や暴力によって微妙に変わるものですががこれについて深く掘り下げた作者はほとんどおりません。銃火が止めば戦争がそれで終わるわけではないのです。

戦争によって傷ついた家族はいまでも数え切れないほどたくさんおりますが、その嘆き悲しみの記録は図書館を探してもほとんど見当たらず、また戦没者碑にも刻まれてはおりません。「過ちはくりかえしませんから」という言葉は亡くなった人々に向けられたものであると同時に、いま生きている人々の信条でもなければなりません。

私は、戦史には戦争生存者の受けている苦しみや心の傷こそが中心に記述されなければならない、これを余分なものとしたり、別の話として片付けてはならず、戦争というものがどんなものであるかを描きなおさなければならないと考えております。 これがいま私が本を書いている目的なのです。

私は私の本の中で寺尾先生のことにも私が執筆中の「悲しみの千年期」に触れようと考えています。

ありがとうございました。

ロッド・パール


都丸 史人 東京都 99/08/06

はじめまして。寺尾先生の手記を読ませていただきました。

私は、東京で生まれ育ってきましたが、物心ついた時から「原爆」と言う物が意識の中に有りました。 理由は両親が、反戦、非核活動に(微力では有るのでしょうが)かかわっていたり、その関係からか、親戚の知人であった丸木夫妻と知り合いであった事、もう一つは私自身、長崎の被爆からちょうど19年後の8月9日に生を受けた事・・・だと、思っています。以前から、広島、長崎に関するWebは結構探していたんですが、奇しくも、今日、広島の日に読む事に成ってしまいました。 実際に体験した方の、淡々とした文章ほど心を揺さ振られる文章はないのではないでしょうか。

広島の原爆資料館を出た時に、隣には友人もいたのですが、気持ちを表現するべき言葉が見つからず、黙り込んでしまった事を思い出してしまいました。また、長崎の時には、理由の分からない涙を抑える事が出来なかった事・・・。うまく言葉に出来ないのですが、強いて言えば、「理不尽さ」に対しての「無力感」なのでしょうか。
レスポンスの中にも共感できる物がいくつも有ります。(まだすべては読めていませんが)

子供の頃、東松山の丸木美術館に連れて行ってもらい、「原爆の図」を初めて見た時、さすがに恐怖感で、泣き出してしまった事を覚えています。あの時は、ほとんど反射的に「見たくない」と言う気持ちが有ったのでしょうが、いつの頃からか、「見なくてはいけない」と思っています。そう思い始めてから、広島、長崎に関する資料などを、機会が得られた時には、極力、きちんと見ようとしてきました。

その流れで、第二次大戦全般に関しても、いろんな資料を見ているうちに、「なぜ、あんな事(原爆投下)に至ってしまったのか?」と言う思いが生じ、広島、長崎を訪れる前に、日本人(軍)が大陸でして来た事を見ておきたいと思い、韓国の独立記念館を訪れた事も有ります。
偶然にもその時に、同じバスに乗りあわせたのが、広島から訪韓に来ていた方々だった事には、ちょっと驚きましたが。

広島、長崎は、科学技術が進歩したゆえの悲劇のうちの一つだと思っています。 私は、メーカー勤務ですが、そういった技術屋の端くれとして、ある種の「倫理観」のような物は失わずにいたいと思っています。 また、こういうネットも、科学技術の進歩の結果です。実際の戦争経験、被爆経験を語り伝え、広めて行くためには、一つの有効な手段ですよね。 私の周辺の若い人たち(私たちの年代含めて)「過去の悲惨な事象に、わざわざ目をむけたくない」と思っている人は、結構多いようです。

でも、見なくちゃいけないんですよね。

私の父親も太平洋戦争中、前線に行っていた事が有るようですが、その時の様子を聞 かせて欲しい・・・と言う言葉が出せずにいます。
今回の寺尾先生の文章、それに対するレスポンス等読ませていただいて、「酒飲んだ 時でも切り出してみるか・・・」という気になってます(出来るかどうか・・・怪しいですが)。


マイク・バートマス ロサンジェルス U.S.A. 99/08/06

このような貴重なサイトをありがとうございます。
ヒロシマの体験記は私にとって特別な意味を持っています。私はごくちいさいころからヒロシマで何があったか知っていました。決して忘れることは無く、毎年思い起こしています。

1955年8月6日
奇しくもこの同じ日に
生まれしことに
私は涙す

ヒロシマに失われし
罪無き命の重さを
世界は嘆き悲しむ


マイク、マヤ


ルス・クレス チャールストン U.S.A. 99/08/06

寺尾先生、

私は直接被爆された方の記録をよむのはこれが初めてです。正確には実際に現場に居た人が発信した生の記録です。私は戦後の1964年に生まれましたがアメリカ人の一人としてアメリカがヒロシマおよびナガサキに対して行った行為を心から恥ずかしく思います。

先生が述べておられるように、ほとんど皆が徴集されていたのです。私は軍事目標にされたこの2都市で生き延びることができた人が居たのだろうかと自問するのです。私にはあの日に先生が耐えた苦痛や失ったものを想像することすらできません。私は先生にご自分が体験されたことを聞く耳を持つ人には誰にでも話してやっていただきたいのです。私は核兵器がすでに実態として存在する時代に生まれ育ちました。ですから、このような生の体験記録を読まないかぎり、何も感じないのです。

子供を持ったいま、私はあらためてこのような兵器は地上から無くしてしまわなければならないと考えます。私は先生の記録をプリントして私の子供たちに読ませます。

残念なことですが、中国や北朝鮮の友人たちが使いたくても使えるはずのないような兵器を作るのはいかに時間の無駄であるかに気づくまで、想像を絶する事態に至らないよう、抑止力を保持しなければならないのです。わたしはこのような国々に敢えて言いたいのです。生きている人々に核兵器を使用したアメリカという国は、後世に誇りをもって伝えることのできる歴史の一部ではないと。

寺尾先生、ありがとうございました。

ルス・クレス :アメリカ 西ヴァージニア州チャールストン


ヨランダ・オルテガ U.S.A. 99/08/06

わたしはヒロシマおよびナガサキの原爆犠牲者を忘れさせないこのウェブサイトに感謝し、あらためてご挨拶をお送りします。 松村さんは原爆という惨劇を体験された方の記録をまとめられ、素晴らしい仕事をされました。

私は原爆投下の3年後に生まれた一アメリカ人です。私は12歳のとき、ジョン・ハーシイの「ヒロシマ」を読み、初めてヒロシマについて知りました。この本を読んで私は全生涯にもわたる非常に大きな衝撃受けました。このほか、私は原爆について書かれたもう一冊の本も読み、また原爆投下後の状況を描いた絵を何枚か見ました。寺尾メモを含めて、このような個人による体験記録というものは、今後、二度とこのようなことを起こさせないためにも、また意思の疎通をよくするためにも非常に貴重なものと思います。

寺尾メモ作成に関わった人々に感謝します。

ヨランダ・オルテガ,米国


ロハン・デイリー U.S.A. オークランド 99/09/01

私は今日、8月6日、ヒロシマ原爆投下54周年として放映されたニュース番組からのリンクを経由して寺尾先生のサイトを発見しました。私は世界中の人々が注目しているこのサイト私も参加させていただきたいのです。寺尾先生がご存命であったら直接先生にお礼できたのにと思います。先生はご自分の体験を発表することによって、忘れてしまいたかった恐怖を敢えて思い起こすことはなかったのだと思います。しかし先生は私たちのために真実を語ってくださいました。

私はこの国(アメリカ)に生存している人たちから原爆症の恐怖について初めて聞きました。この人たちは毎朝起きると自分の体をくまなく調べ、皮膚の色に少しでも変化がないかどうかを見るとのことです。もしあればそれは放射能障害の発病だということです。皮膚が崩れはじめ、死にいたるのではないかと恐れているとのことでした。この方たちは毎日、そのことを心配しているのです。その恐怖を聞いて本当に苦痛を感じ、恐怖を覚えずにはおられませんでした。

これは私が実際にある民事法廷での証言を傍聴して知ったのです。これは核兵器を製造・運搬する命令に抗議して逮捕された人々の裁判でした。日本人の原爆犠牲者も何人か証言台に立ち、被爆の恐怖や核兵器の恐ろしさについて語りました。もちろん、裁判官はそのような証言は本件には関係ないとして取り上げませんでした。本来ならば裁判官は被告が「なぜ」抗議しているかは問題ではないとしたうえで、彼らの「行為」が違法であるか否かのみを判定すべきだったのです。これはもはや正義(justice)ではありません。残念ながらこれがわが国の実態 (JUST US)なのです。

このような態度はあの恐ろしい経験から見ればごく一部の人間のうわべだけの素振りに過ぎないのかもしれません。私はここに、アメリカ市民の一人として当時の「わが国」の政府および抑制の効かなくなった軍部が暴走し、貴方の国に筆舌に尽くしがたい荒廃を与え、いまも苦痛を耐え忍んでいる生存者の方々に心よりお詫び申し上げます。

今日に至るまで、アメリカ政府は核兵器拡散の恐怖を煽り立ててアメリカの意に従わない国々に対してイデオロギー闘争を仕掛けており、わが国にはその宣伝にたやすく乗せられてしまう人が多いのです。しかしここではっきりさせなければならないことは、核兵器を最初に開発したのはアメリカであるということ、そしてそれを一回ではなく、「二回」までも使用した唯一の国ということです。その結果、世界は核兵器の開発競争に突入し、保有し、「大量破壊兵器(なんと言う婉曲な表現でしょう!)を使うぞ」という脅しが外交政策の基本となってしまったのです。

自国の政府および軍部に対してこのような兵器の生産と使用に断固たる反対の意思を表明することこそがアメリカ市民の責任なのです。

私が見たニュース番組で寺尾メモにリンクしたわけですが、その番組ではニューメキシコ州のアメリカ国立原子力博物館の売店で売っているイヤリングが紹介されていました。それはヒロシマとナガサキに投下された原爆を開発した科学者たちがアメリカ人の命を救ったことに感謝(と言っていました)するデザインでした。

私はいま書いている貴方へのメッセージを書き終わったら直ちに同博物館、そこに補助金をだしているロッキードマーチン社、および同じくこれに関連しているアメリカエネルギー省に抗議のメールを入れます。彼らはすでに日本から多くの抗議を受けています。私の抗議メッセージもそれに追加しようと思います。

改めて貴方のサイトに感謝いたします。私はアメリカ発としてほかの国々の人々にも貴サイトを読んでもらうよう、発信します。私は貴サイトを長時間かけて全部読みました。そしていまこの瞬間、悲しみと苦痛を感じ、今後もその中で生きて行くことになると思います。

最後に尊敬の念を込めて寺尾先生のお言葉を繰り返えさせていただきます。「再びこのようなことがあってはなりません」

ロハン・デイリー

アメリカ カリフォルニア州オークランド



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