私はたったいま、ヒロシマ原爆の記事を読み終わったばかりです。 シャンテル・カークビー 私は昨夜、日本の友人に電話したのですが、9時間時差があるので日本ではすでに8月6日になっていました。そして今朝、ここイギリスであの残虐非道な行為でヒロシマ(およびその3日後にナガサキ)を地上から消滅させた原爆投下記念日を迎えました。 私は寺尾武治さんの手記にめぐり合い、誰もが経験したくないような日の記録を読めたことを感謝しております。 00/08/07 あなたのサイトに載せていただいて嬉しく思っています。私が特に感銘を受けたのは寺尾先生の奥様のメッセージです。寺尾先生はご家族の誰にも被爆経験をお話にならなかったのですね。 私がこのウェブサイトに立ち寄ったのはどうしてだか分かりませんが、巡り合えてよかったと思っています。寺尾先生のヒロシマの記録をインターネットに掲載し、多くの人々が読めるようにしてくださってありがとうございます。 昭和33年生まれの私は戦争を知らない世代です。 こんにちわ。 私は寺尾先生の体験談を見て原爆の恐ろしさがどれだけのものか思い知らされました。広島の原爆の話は社会の本や、英語の本(物語)、図書室で借りる『戦争と子供たち』で知りました。その本の中の広島での原爆が落とされたときの写真などを見て心がすごく痛くなります。それと同時に、あの原爆が一瞬にして多くの人間の命をうばったと思うと許せない気持ちでいっぱいです。 和歌山県和歌山市 楠見 知沙 (高1) こんにちわ。 松村さん はじめまして 関心ある皆さんへ はじめまして.
読者からのメッセージ
私はまだ小学生ですが、私も寺尾先生と共にあの瞬間のヒロシマに居たような気がします。私は学校でヒロシマ原爆のテーマでいろいろ調べています。寺尾先生の手記を読んで大きな影響を受けました。
原爆投下の是非について私はこれから私自身の考え方をまとめるのですが、私はこの悲惨な出来事は防止できたであろうし、防止しなければならなかったことだと考えています。
寺尾先生のご冥福をお祈りし、神のご加護のあらんことを。ありがとうございました。
私は以前、アメリカの首都ワシントンの航空宇宙博物館を訪れたことがあります。当時、そこではB-29原爆投下機エノラゲイ号が展示されていました。その展示区域に入るのに徹底したセキュリティチェックされました。なぜだかよく分かりませんでした。しかし、原爆を運搬した機体の一部を見、搭乗員のインタビューのビデオを聞き、数多くの無垢な人々の生命を奪った残虐非道な行為を正当化するアメリカ人の見えすいた口実を読み、私は激しい怒りに駆られると同時になぜセキュリティチェックがあんなに厳重であり、持ち物を何一つ展示場に持ち込めなかったかが分かりました。
このような展示はすべきではなかったのです。見た人々は皆、計りしれない感情に圧倒されて押し黙っていました。ほとんどの人が展示を見、説明を読んで衝撃を受け、言葉も無く展示場から出てきていました。
「なぜ、何ゆえに」このような破壊と尊厳の破壊が人々の生命に対して行われたのでしょう? どこの誰がこのような大量殺人を許容できるというのでしょうか。
寺尾先生の記録を読み、生存者の苦痛というものが実感できました。この方々の世界は失われてしまいました。友達や家族はもう帰ってはこないのです。
私たちがしなければならないことは、このようなことが二度と起こしてはならないということです・・・正に寺尾さんがおっしゃったように。
敬具
ヴィブハ ジョシ
私には親しい日本の友人がおりますので、ほとんどの被爆者の方々は自分が持っている不安や苦痛を告白すると親しい人々や家族がそれを聞いて苦しむのではないかと考えてあえて話したがらないのだ、ということがよく理解できます。
しかしながら、寺尾先生はあえてあの日の経験を話されました。そのおかげで私たちは55年前に起こったあの無責任な行為が、破壊とその後の人々の心に残した傷跡の原因となったのだと知ることができたのです。
私はここに改めて誓います。このようなことは人類の歴史に二度と起こってはならないのだと。
私はエノラゲイの展示をヒロシマ原爆投下50周年の1995年に見たのです。
ありがとうございました。
ヴィブハ ジョシ
この記録は戦争というものがいかに破壊的、非人道的なものであり、その惨禍は幾世代にもわたって影響を及ぼすものかをよく物語っています。
ありがとうございました。
私はカナダのウィニペグ市の大学の4年生です。
ローズマリー. スニガ
テレビや映画、本などでその悲惨さを知るくらいですが、戦争に対するカルチャーショックを受けるのはこれで2度目です。
1度目は沖縄のひめゆりの塔での体験です。現地では語り部としてひめゆり女学生の、静で生々しい体験談を聞かせていただきました。
今回は広島の原爆の悲惨さを、寺尾先生の原稿で知る事が出来ました。
平和である事が当たり前として過ごしている私たちは、毎日の生活に終われ、平和のありがたさに感謝する事を忘れ、口から出る言葉は愚痴ばかり。こういうショックを受ける事により、自分が今抱えている悩みや心配事がとても些細な事のように思え、戦争や原爆の悲惨さと比べると、なんでも出来てしまいそうな気がします。単純なのでしょうか?でもそれでまた、頑張れる、頑張ろうという気になります。
私はまだ広島へ行ったことがありません。今日思わず主人に『子ども達と一緒に、広島へ連れていって。』とお願いしていました。是非行ってみたいと思います。
入舟荘 後藤 美鈴
今でも被爆者達が苦しんでいます。今年も被爆者達が大勢亡くなりました。それを知っても現代の世界は核兵器、紛争をやめとうとしません。いっこくも早く核兵器のない世の中を願いたいです。
寺尾先生、嫌な体験談なのに語っていただいてありがとうございます。
私は日本の2都市への原爆投下は人類に対する最大の犯罪と考えます。なぜなら、原爆は普通の、無力な民間人を目標にしたからです。
少し前ですが、私は日本は実は原爆投下の前に条件付降伏をしていたのだと書かれた本を読みました。残念ながらその出所は必ずしも信憑性が高いとは言えない、ある外国のサーバーを経由したサイトで読んだものです。ドイツでは本件のような本は発売禁止になっているので止むをえませんでした。
そこで、もし本件に関する何らかの情報があれば教えていただきたいのです。どこかでこの本を入手できればもっといろいろなことが分かると考えています。
問題は、これに関する図書をドイツ国内の図書館で見つけることは事実上不可能で、したがって学校の教科書にもこのことは何も書かれていません。
私はとくに政治的な人間ではありません。ただ、史実を知りたいだけです。私が本件に関心を持ったきっかけは、日本が最初の原爆を投下されていながら無条件降伏の意思を表示しなかったとは信じがたく、またある噂ではアメリカはこの行為を依然として「実験」だったと言い張っていると知ってからです。
私は寺尾先生が誰をも非難しなかったのは正しかったと思います。ただ、私はアメリカは正式に、適切な方法で原爆投下を謝罪すべきと考えます。
もちろん、謝罪したからといってその行為が取り消される事はありませんが、このような残虐な行為が決して繰り返されてはならないことを確信する大きなチャンスになると思います。なぜなら、この悲劇を語り続けることが再発を防止することになるからです。
この意味で、このサイトの存在は大きな意味を持っています。誰でもが寺尾メモを読み、感動できるからです。
私はじつは原爆について書かれたもので個人的な体験を読んだのは今回が初めてです。私は寺尾先生は最も深い尊敬を受けるべきと考えます。先生の記録は単にある被爆の経験に留まらず、戦争の無意味さに対する記録でもあるからです。
マーチン ホフマン
私は東国東郡安岐町の南安岐小学校の4年生担任の滝口といいます。
33歳2児の母親でもあります。
3月にパソコンを購入し、インターネットでこのサイトを見つけました。
見つけて読む気になるまでに2ヶ月かかりました。
今日意を決して読みました。
自分の身に起きていたら・・・
私は多分死ぬまで口を閉ざして生きたでしょう。
自分や身内の人間に降りかかるであろう差別をおそれて・・・。
あなたはすばらしい恩師に恵まれた方だと思います。
大分にこんな勇気を持った先輩教員がいたことを
今は誇りに思います。
松村さん
学級通信でこの
「原子爆弾による被爆の話」をとりあげていきたいと思うのですがお許しいただけますか?
先日朝日のサイトで原爆を作る作業に参加したアメリカの女性科学者が中国で戦後を過ごしているという記事を読みました。
うまく言えないのですが
語り続ける人間でありたいと
感じ続ける教員でありたいと
今強く思っています。
今うちの学校では運動会の練習で日々が過ぎていっています。
この日常が「日常」でありつづけるように、日焼けした子どもたちの笑顔を見ていて願わずにはいられません。
私はアメリカの一市民です。私は第二次世界大戦の記憶を収集保存しています。
このたび、1945年8月6日のヒロシマおよびそのすぐ後にナガサキに投下された原爆により失われた多くの人々の無言の声を語ってくれた方々の勇気と力に深く感謝いたします。
私の考え方について少し説明させていただきたいと思います。また、これからお話することは原爆に会われた方々の恐怖や苦しみを取り除くものではありません。戦争というものがその結果がどうであれ勝者、敗者双方にとって皮肉な結果をもたらすものであることの一つの記録です。
私は現在あるボランティア団体に属しております。ここでは、第二次世界大戦中の連合軍航空機を収集、復元、飛行させています。私の支部はコロラド州ボールダーにあり、名前は「1マイル高さの翼」(訳者注:標高1,600メートルのボールダーにあるグループ)と言います。そこでは1943年製のロッキードPV-1型機を1機保有しています。この航空機はロッキードPV-1ベンチュラのモデル機です。私たちはこの機種に特に関心を持っています。というのは、このロッキードベンチュラこそがアメリカ艦艇インディアナポリスの生存者を捜索、発見したからです。
ここでいよいよこの電子メールの核心部分についてお話いたします。これはいうなれば米日双方の恐怖が織り交じわったものです。と同時に、この小さな惑星の上で人類が生存して行くなら、戦争などというものをいつまでも続ける事などできないのだということをこの挿話によって描き出せればと願っています。
ヒロシマとナガサキは1945年8月、アメリカによって原爆を投下されました。これが長い、第二次世界大戦の残酷な終結であったことは否定できません。
この2発の原爆の核心である放射性物質はサイパン島近くのテニアン島に輸送されました。1945年7月末のことです。ヒロシマに投下された原爆の核物質は密命をうけたアメリカ巡洋艦CA-35インディアナポリスにより輸送されました。この巡洋艦が選ばれたのは防御力が優れているからではなく、その速力にありました。
この輸送作戦は極秘裏に行われたのでアメリカ海軍当局でさえその就航計画入手や航路追尾が出来ませんでした。インディアナポリスはただ一隻だったのです。サンフランシスコを出航後ハワイの真珠湾に寄港した後、テニアン島に到着、核物質を陸揚げしました。その航海速度は最高値を記録したのです。テニアンを出た後、フィリピンのレイテ島に向かいましたがこの航海は軍事訓練が目的でした。
1945年7月30日の深夜過ぎ、ちょうどグァム島とレイテ島の中間点に差し掛かったとき、日本海軍潜水艦イ-58がインディアナポリスを捕捉、6発の魚雷を発射しました。
インディアナポリス艦上では通常の深夜勤務状態にありました。無事、勤務交代も済んだので非番者はそれぞれの寝棚に潜り込みました。チャールスバトラーマックウェイ3世艦長も自分の居室で寝ていました。
魚雷が船殻に命中し、インディアナポリスはばらばらに切り裂かれました。船首が千切れて飛び散りました。インディアナポリスは15ノットを超える速度で走っていたのでこれが船首から太平洋を丸呑みする結果となり、わずか12分で沈没しました。
1196名の乗組員のうち900名が鮫がうようよする海中に投げ出されました。300名は船中に閉じ込められたまま海底へと沈んで行きました。インディアナポリスの使命は極秘とされていたので通常の航路追尾もされておらず、したがって緊急信号も何かの間違いだろうということにされました。
撃沈されて4日後、1945年8月2日になってやっと最初の希望が湧いてきました。1機のロッキードPV-1ベンチュラがパラオ群島のペレリュー島から発進しました。その目的は敵潜水艦探索でした。海軍巡視爆撃隊VPB-152所属の機長ウィルバーチャックグィン大佐は洋上に流れる油の帯と海中に浮かぶ生存者を偶然、発見しました。
生存者が全員救助されたのは発見からさらに2日後でした。1945年8月4日のことでした。結局、300名が救助され、900名が海の藻屑となりました。
これが私の言う皮肉な、恐ろしい偶然の一致です。死亡した軍人は彼らが何を運んでいたのかを知りませんでした。自分たちが運んだものがどういう結果になるのかも知りませんでした。彼らはヒロシマおよびナガサキに原爆が投下される前にすでに原爆の犠牲となったのだと言えなくもありません。
戦争とは人の命の恐るべき浪費です。戦争の究極の目的とは一体、何なのでしょうか。貪欲さがその根底にあるのでしょうか。あるいはわが国の人々の心をエゴイズムが支配しそれが膨張するからなのでしょうか。
こんなことは二度とあってはならないのです。
ヒロシマ、ナガサキの生存者の方々にはその体験をぜひ語り続けていただきたいと思います。なぜなら、一般大衆の意識というものはともすれば戦争の恐ろしさを忘れ、あるいはその記憶を喪失し、人類がまた悲劇を繰り返してしまうように運命づけられているからです。
私は自分たちの体験を話した人々の勇気に深く感謝するものです。そのお陰でいま生きている私たちが人生を全く変えてしまうような羽目にはまることを防いでくれているからです。
世界が第二次世界大戦およびそれ以前、あるいはそれ以後の戦争の犠牲になった人々のことを忘れないよう、祈ります。
ブライアン・S・ブルムフィールド
米国コロラド州
寺尾先生の記録を読み,それが当時の権力者や政府が行った悪魔的の行為にとっていかに強力な証言であるかが分かりました. 私は,何時の日か個人としての私たちがこのような死と破壊について心配しなくても済むようになることを心から願っております.
先生の記録は読む人の心に暗い影を投げかけたことでしょう.あの記憶を呼び起こすことはその当時まだ小さかった人々にとってとても恐ろしいことに違いありません.
私は当時,子供だった人々が寺尾先生の記録を読んでどう感じたかを言っているのです. もし,大人たちがこの馬鹿げた,恐ろしいやり方をこれへの回答とするのであれば私たちは私たちの子供達にあのような辛い記憶や苦しみはあってはならないことだったのだと言い聞かさなければなりません.
あのような悪夢が二度と繰り返されないことを祈ります.
C シドリッツ