ティム・サビン U.S.A 02/06/06
私は最近,ロスアラモス国立研究所に行ったのですがそれは量子力学に関する情報などがあると聞いたからです. そこで実際に原爆に関するいろいろな資料を見ることができました.
私はそれを見て「なぜ原爆投下を自慢げに話すのだろう」と疑問に思いました. 寺尾先生のホームページへのリンクもありました.
私はパキスタン,インド,アメリカ,その他核兵器を保有する能力のある国々が彼らの兵器庫からそれらを引きずり出して来てはならないと今までにも増して強く感じました.
核兵器を使わせない最善の方法が誰かが「すべての」核兵器を解体するだけでなく二度と作り出せないようにしてしまうことであることは論を待ちません.
ロスアラモスでもそのことについてはすでに考慮済みとは思いますが・・・
ティム.サビン
米国ヴァージニア州 フェアファックス
ブライアン・オコーネル U.S.A. 02/06/10
ヒロシマと長崎への原爆攻撃について二つのことを述べてみたいと思います。
その一つは、恥ずかしいことですが私たちの国はこの恐るべき武器を世界に向かって解き放ってしまいました。世界を大きな恐怖に曝してしまったのです。いろいろ言い訳はあるでしょうがそんなものは何の役にも立ちません。恐ろしい選択が恐ろしい行動に結びつきそして恐ろしい結果をもたらしたのです。
もう一つは原爆犠牲者およびそのご遺族への感謝です。お分かりにくいと思いますので簡潔にご説明します。
まず, 彼らの犠牲と言うものが無かったら世界の人々は核攻撃がもたらす本当の恐ろしさ知ることはできなかったと言えるのではないでしょうか。(戦後もマネキン人形を配置した実験市街を使って核実験を繰りかえし行い、また動物実験も行いましたが、実際の人間にどんな影響があるかという情報を知らずにいくら実験しても本当の恐ろしさは分からなかったことでしょう)
次に、原爆犠牲者のおかげでわが国政府は戦争に勝つためとはいえどの程度のことまでが許されるのかという限界を示してくれました. 私たちは政府がどこまでやるのかずいぶんハラハラさせられました. 理解力が鈍いと言われそうですが, 私は2001年9月11日の同時多発テロの後でさえ核ミサイルがアフガニスタンに向かって発射されることが無かったことをいまさらのように驚きの目で見ています.(あなた方の多くがすでに気づいているように時の大統領が特に高い知性を持っていたというわけではありません)ヒロシマおよび長崎の原爆犠牲者のおかげで核攻撃を避けることができたのだと思います。原爆で犠牲になられた方々はこのようにして日本だけではなく世界を救ったのです。
こんなことを言ってみても犠牲になった人々や家族を失った方々には何の慰めにもならないとは思いますが、もし原爆投下という事実が起こらなかったとしたらその後の世界において核戦争の可能性はもっと高かったであろうし、あるいは我々は今日ここにこうして存在することすらなく、このような議論さえできなかったかもしれないのです。
原爆投下は誰もが二度と目にしようとは思わない恐怖です。このような損失は今後誰もが目撃してはならないなのです。 私は一アメリカ市民として、少数派かもしれませんが日本の人々は戦争と言うものがいかに残酷になりうるかを身をもって示してくれたという立場に立ちたいのです。より多くの人々を救うために数多くの方々が原爆の犠牲になったのです。 パキスタンやインドの人々も含んで私たち人類は犠牲になった方々に祈りをささげなくてはなりません。
私たちは自身を人類という生物種として捉えるなら、核兵器の開発やこれを用いての破壊という愚行から離脱し、自分と考えの合わない人を非人間扱いするのをやめ、そして真の勝利者などどこにもいない戦争ゲームを停止させる時が今こそ来たのではないでしょうか。
ブライアン・オコーネル
アメリカ
ポーリナ・コレヴァ ブルガリア 02/07/07
はじめまして。
私の名前はポーリナ・コレヴァといいます.私はブルガリア人で現在はフランスに住んでいます。 私は1999年から2001年までの2年間,日本に住んでいました。 日本語はできるのですがちょっと自信がないので英文で書かせていただきます。
私は友人と一緒に2000年6月にヒロシマに行きました.ちょうど2年前のことです。 私たちはある慰霊祭に出席し,また原爆資料館も訪れましたが最も強く印象に残ったのは以下のことでした。
私の恩師である金沢大学の井上秀雄教授の取り計らいで私たちはある会合に参加できたのです. そこである被爆者の体験を聞くことができました。 言葉には言い尽くせない大変なショックでした。
その後 ,私は日本の友人の手助けで私が受けた衝撃を日本語で書きました。 そしてそれを金沢にある反核団体の人々に読んでもらいました。
この中で私はこの地球上のすべての人々はヒロシマおよびナガサキの人たちが受けた悪夢の苦しみを知らなければならないと主張しました. あれから後の世代の人々は世界平和が最重要なことであることに少しの疑問も差し挟んではならないと信じています。
被爆者の証言は今後とも生き続けなければなりませんがこれはまた被爆された方々がその悲惨な過去の記憶に立ち戻ることでもあります。
私たちは被爆者の方々が私たちのために残してくれた貴重な体験に感謝しそれを世界中に広めなければならないのです。
世界に平和のあらんことを!
ブルガリア
ポーリナ・コレヴァ
藤井 紗央里 愛知県 02/07/25
こんにちは、初めまして。
私は中学3年生の藤井といいます。
『原子爆弾による被爆の話』読ませていただきました。
私は今年、合唱で原爆についての歌を歌うので、原爆について調べていました。
それで、このHPとめぐり合うことができました。
いくら想像しても、未体験の私たちには分かるはずのない、原爆の恐ろしさ。恐怖。
どうしても感情を上手くいれられず、言葉にも重みが出ませんでした。
だから、何としても被爆をした方の詳しい描写やその時の恐怖感などをお話として聞きたかったのです。
なので、『原子爆弾による被爆の話』は私にはぴったりでした。
すごく、すごく怖かったです。
見たこともない私には分かるはずのない恐怖感。
だけど、そんなことを忘れてしまうほどの、内容でした。
どれほどの恐怖を、寺尾さんは味わったのだろう…。そう思うと本当に怖かったです。
どれほどの人が苦しんだのだろう…そんなことは、分かりませんが、怖くて怖くてどうしようもありませんでした。
私は明日、『原子爆弾による被爆の話』を、部活の皆に広めて、そして原爆について知ってもらおうと思います。そして、原爆の恐怖を、人々の苦しみを、歌いたいと思います。
一方的なことばかりですみません。ですが、このお話を読んだ時の気持ちを、衝撃を、私は絶対に忘れません。有難う御座いました。
トロイ・コリンズ ニュージーランド 02/08/04
私はニュージーランドに住んでおり日本語を学んでいます。 私たちは研修の一環として17名の同僚と12日間日本を訪れたことがありました. そのうち2日間ヒロシマに行きました。私は「永遠の火」と「原爆記念館」から非常に強い衝撃を受けました。
私の瞼にはいまだに恐ろしい情景が焼き付いており, また原爆犠牲者「サダコ」の記録を一気に読むことはとてもできませんでした。
私は原爆資料館を涙なくして見て回ることはできませんでした. 私の同僚も同じでした。
私は寺尾先生の記録を読んだとき、こんなことが起こったのにその恐怖について記録しようとする人がなぜいままでいなかったのだろうかと悲しくなり、また怒りがこみ上げてきました。(訳注: 公式記録はたくさんあるがトロイさんは寺尾さんのような語り口のものに出会ったことがなかった?) 私は寺尾さんの勇気に改めて敬意を表するものです。ご自分の恐ろしい古傷をあえて広げることがどんなに辛かったか、私には想像すらできません。
私は寺尾先生のような方があの記憶を生きた形で残してくれたからこそ、人々が多くのことをそれから学ぶことができるのだと考えております。
この世に核兵器が存在する限り、ましてやそれが拡散しようとしている現在、人類の未来はかみそりの刃の上で辛うじてバランスを保っているといえるのではないでしょうか。
寺尾さん,有難うございました。
ニュージーランド
トロイ・コリンズ
ディヴィド・オヘア 02/08/07
私はいままでに世界が一つの重要な教訓を学んできたと願い,祈っています. 今週の第57年目の原爆記念日にあたり私たちは世界の指導者たちが世界平和のために努力するよう強く語りかけなければなりません.
この生命の貴重な贈り物である地球を核兵器により破壊しては絶対にならないのです.
ディヴィド・オヘア
ハンナ・メッチャム U.S.A. 02/12/17
私はインターネットでヒロシマ原爆の個人的な記録を探していて偶然に寺尾さんのページを見つけ,それを読みました.
この記録を読んで私の目に新しい光が宿りました.私はアメリカの若い一学生です.私は今までに歴史の教科書が述べていることしか知りませんでした.私はあの戦争があのような方法ではなくもっと異なった方法で終わるべきだったと強く願うものです
私はアメリカ,日本,そして世界中の多くの若い人々が過去に起こったことに目を向け,それが現在の世界にどのように影響しているか,あるいは将来どのような影響を与えるかを学ぶべきと思います.
このような体験はすべての人々に伝えなければなりません.そうすれば戦争というものがいかに破壊的なものであるかを人々が理解できます.
寺尾先生のご冥福をお祈りいたします.
米国
ハンナ・メッチャム ウェブからもっと学ぼう
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