読者からのメッセージ
こんにちわ。「宮島」に関するサイトを探していてこのページを見つけました。 私は15才になる息子を呼んで寺尾メモを読んで聞かせました。息子は(そして私も)深く感動し、夜眠れませんでした。 私は原爆投下についてもっとはっきりと認識しなくてはいけないと思います。ここアメリカでは1941年12月7日の真珠湾攻撃のことが繰り返し放映されているのに、その結果として起こった「破廉恥行為の日」については全く無視されていることに怒りを覚えます。 このページが英文で表示されていることを嬉しく思います。より多くの人々がこの事実を知ることができるでしょう。ありがとうございました。 1998年2月1日 私は私の母同様、戦後生まれの子供です。 ここ数ヶ月の間、第二次湾岸戦争や生物兵器のことがが取り沙汰されています。 私は学校で先生が近代史の時間に原爆について話したことを覚えています。 先生は原爆によりいかに多くの人々が犠牲になったか、そしてその後もいかに多くの日本人が心の中にあの痛ましい記憶を抱いて生き続けているかを話してくれました。 先生はまた「テラー爆弾」についても話しました。これは、原爆よりも致命的な、残虐な兵器だそうです。というのはこの爆弾は建物には何の損傷も与えないのに、死の風のようにあらゆる生命体を破壊してしまうからです。 間もなく21世紀がやってきます。私たちの世代は寺尾先生の経験がまた繰り返されるのではないか、そしてその結果は寺尾メモほどではないにしても相当悲惨なものになるのではないかという恐怖感の中で生きて行くことになります。 私は寺尾先生が御自身の経験をウェブに寄贈され、私の世代の人々がそれを読むことができました。あらためて寺尾先生を尊敬いたします。私はより多くの人々がこのサイトのアクセスし、先生が体験された償うことのできない苦痛がどんなものであったかを理解することを望みます。 ささやかながら先生への尊敬の念をこめて。 1998年3月16日 ベルギー サンディ・ローガン 日本での原爆メッセージはテレビ、芝居、新聞など毎年8月6日をめがけて公演、報道などで見ます。そして私の父も原爆の空気を吸ったが為に病気になりました。私は在日韓国人です。韓国人でありながら父は原爆を浴び、生死の間をさまよったのです。 寺尾さんもお気の毒です。ただの市民だった寺尾さんが原爆の犠牲になり、本当にお気の毒としか申し上げることが出来ません。 よく、広島に原爆が落ちたから戦争は終われたのだ、という言葉を耳にしますが、皮肉ではありますが私もそう思います。 これが原爆でない方法で戦争を終わらせていたら、日本がアメリカを怨むこともなかったものを、と思うからです。 でも、中国人も朝鮮人もフイリピン人、東アジアの全ての人々があの戦争のために辛苦を舐める思いをして当時を生き延びてきたのも事実です。 アメリカが真珠湾攻撃を人々に知らしめるように、日本は原爆で戦争の愚かさを知らしめているのです。 なんといっても戦争は愚かな行為です。人が人を殺すなど平常心があればとても出来ることではありません。それが出きるというのは、戦場という特殊な場にいるからです。原爆投下は国の権力者が命令を下したからで、投下したその人には何の罪もないのです。 でも権力者は、飽くことなく、また戦争を目論んでいるのです。 寺尾先生、 私は18才の学生で、カナダに住んでいます。私は原爆関係のプロジェクトに携わっています。 敬具 感動した一学生 私が,小学生だったころ,原爆の映画を見て激しいショックを受けました。 先日の,インドの核実験で,長いこと忘れていたその恐怖を思い出しました。 そして,原爆のことは,決して忘れてはいけないんだと改めて実感したのです。 地球が泣いています・・どの国の人も,きっと思いは同じはずです。 つらい体験を語ってくださった寺尾先生の思いと,亡くなっていった方々のことを無駄にしては,いけません・・・ 私も息子が大きくなったら原爆について話してやろうと思います。 大事なことはきちんと伝えていくことですよね・・・ はじめまして、僕は小堀 武夫と申します。僕は耳が聞こえません。耳が聞こえないということは耳が聞こえる健聴者より、情報不足になりやすいということでもあります。だから、正しい文法の使い方、他人とつきあううえでの礼儀とかがよくわからず、自分にはそのつもりはまったくなくても、相手にとってはとても失礼なことを手紙に書いてしまうことがあります。今回のメールも自分でも、なるべく気をつけて書きますが、もし、そういうところがありましたら、気になさらないでください。 僕も、戦争と原爆について真剣に考えている一人です。そのきっかけは数年前の夏でした。漫画を描く事が趣味の僕は次は何を描こうか、迷っていたときでした。そのころはちょうど、8月6日、9日、15日あたりだったと思います。なにげなくテレビを見ていましたら、子供にもわかりやすい、戦争と原爆を考える番組が年々少なくなっているような気がしたのです。 初めまして。 寺尾武治先生の広島・被爆体験を読ませていただきました。 わたしの父は、原爆投下当時、広島の軍隊にいました。 父は決まって8月が近づくと、広島で起こったことを話しました。 その父も数年前になくなりましたので、小さいころから聞いた広島の話をまとめようと思い、ネット検索をしていたところ寺尾武治先生の『原子爆弾による被爆の話』に巡り会いました。 父は、広島の惨状については断片的でしたが、私たち子どもや家族に語りました。しかし、軍隊のことはほとんど語りませんでした。 自分のいた部隊名もその任務も自分から語ることはありませんでしたが、母や近所の人から、父は曉部隊にいた、と聞いたことがありました。 今回、父が語った広島の話をまとめるにあたり、「曉部隊」をネット検索し、その中の一つ『原子爆弾による被爆の話』を読んではじめて、父のいた曉部隊は陸軍船舶司令部に所属する部隊であり、この部隊が中心になって原爆投下直後の広島で救助活動をしたことを知りました。 先生や他の方々によって書かれた文章を読み、父の話とそれらの内容を照合すると多少の食い違いはありますがほぼ一致することもわかりました。 先生をはじめ被爆された方々の想像を絶する惨状の体験を読んで、亡き父が語った広島の話を父に代わって語り続ける決意が深まりました。 父が語った広島の話がまとまりましたら、ネットで公開するつもりです。 それが核兵器廃絶と世界平和の実現に少しでも役だてば、原爆症への不安や広島で体験した惨状が元で精神が不安定なまま生涯を終えた父も喜ぶと思います。 「父から聞いた広島の話」 『原子爆弾による被爆の話』がさらに多くの人に読まれますようお祈りしつつ。 1998年7月15日 山根修志 今日は「原爆記念日」ということでNetで記事を探していたところ先生のHPに出会いました。 私は、小学校高学年まで三原市に住んでいました。両親も三原市、尾道市の出身です。 小さい頃から、この日になるとTVの前に座らされ意味も分からないままに「記念式典」の中継を見ていました。 私は、戦争を知りません・・。 しかし、そのTVを見ながら両親が毎年のように話してくれた「戦争の体験談」は決して頭から離れる事なく今に至っています。小さい頃はその体験談が「恐い」という印象でしかありませんでしたが、成長するにつれて「平和」という2文字の意味を考えるようになりました。 広島と長崎に「原爆」が投下された事は事実です。しかし、この事実がどんなことであったのか知らずに生活している人が年々増えているように思えます。そんな人達にこのHPを読んで頂いたり「原爆資料館」を見て頂いて、考えるきっかけになれば良いと思います。 私も、子供が出来たらしっかりとこの事実を話そうと思っています。事実を伝えることによって新しい人達がその意味をしっかりと受け止めてくれれば良いですね・・。 相模原市 常光真由美 こんにちは、寺尾先生の手記を読ませていただきました。 私がこのHPにたどり着いたのは、検索エンジンからでした。 昨日は、広島に原爆が落とされた忘れがたい日であり、各マスコミ、報道関係はそのことでいっぱいでした。私も、いくつかもテレビ番組を見、改めて核兵器の恐ろしさを痛感しました。そこで、「原爆 体験」をいう2つのキーワードで検索を行いましたところ、このページに出会ったと言うわけです。 さて、いくつかのテレビ番組を見てますと、もちろん、広島で起こったことを報道するもの、それから波及して、インド、パキスタンの核実験のことを報ずるものといろいろでした。そういった番組を見てるうちに、世界の核をなくすために自分は何ができるのかと思いました。テレビでは、インドで広島の原爆展を行った女性の方がインド人と核兵器の必要性について議論する場面がありましたが、背負ってる歴史が違うのでしょうか、国民性の違いでしょうか、インド人には全く、核はなくさなければならないという概念がなく、非常に、残念にまた、悔しく思いました。 かくいっても、私自身、どこまで原爆について知っているのか・・となると全くと言っていいほど、無知です。「はだしのゲン」を読むくらいのもので、高校の修学旅行では、長崎の原爆資料館も訪れましたが、地方学生の浮き足だった旅行気分のため、恥ずかしながら、真剣さはありませんでした。今から思うと、貴重な時間をなんと無駄に過ごしてしまったんだと思います。そんな中、寺尾さんの筆舌に絶しがたい体験記は、まさしく私の目の鱗を落とすものでした。運命のいたずらとも言うものでしょうか、あの日に広島にいたというだけの条件で、被爆・・その後、苦悩との戦い・世界中のどんな学校でも教えてもらえない大切な事実を知ることができました。これを知った私は、僅かでも、反核運動に関与すべきだと思いました。もはや他人事ではない、人類として直面すべき問題に真っ向から闘わなければならないと思いました。幸い、私は外国人の知り合いが多く、きっと彼らは広島で起こった事実は知らないことと思います。私の、ささやかな語学力では十分に伝えることはできないかもしれませんが、事実を事実として伝えるのはもちろんのこと、被爆者のメンタル的側面、思い出したくない、言いたくないと言わしめる程の感情、恐怖などを私の生の声で日本以外の文化をもつ方々に伝えることを是非実施しなければと痛感した次第です。 Mr.Teraoという名前と共に、Hiroshima, No more Nuclear Weaponsは、必ず、外国人の心に刻み込もう、そう思いました。 以上、支離滅裂、誤字脱字などあるかと存じますが、寺尾先生の手記を読んで、感じたことを書き上げました。 平成10年8月7日 和歌山県田辺市 乾 忠己 以前、感想を書かせてもらった井上美穂です。 またこの季節になって、このページのことを思い出し、もう一度読み返してみました。 毎年、1回でも戦争、そして原爆について考えることができるのは、このページのおかげだと思います。このページに出会えたことを、とてもうれしく思います。 初めてこのページを開いてからちょうど1年たちました。高校生になり、考えが変わったり、何か他のことを知ったりすることがあるかと思いましたが、何も変わらず、あまり成長していないようです。 アロハ。 寺尾さんのメモを読みました。 そして当時ヒロシマで被爆した人々がその後 どのように生きてきたかもよく分かりました。私はいまこのメッセージをハワイ から書いています。ハワイには広島、山口、その他日本各地から移住してきた 人が大勢居ます。 私達は8月6日の原爆の日に特別な記念行事を行います。また、12月7日、真珠 湾攻撃の日にもパールハーバーでは記念式典があります。今日は当時の生存者 にとって特別の日なのです。私の母は、雲一つ無い青空が突然暗黒に変わり、煙 が立ち上ったことをよく憶えています。 私も平和記念館を訪れたことがあります。私の叔父は広島出身でその後ハワイ に移住しましたが、叔父の友人達が広島で体験したものは想像を絶するものだった とのことです。私は記念館を訪問した際に写真をたくさん撮りました。おかげで広島 の市民がその後どのように復興したかがよく分かりました。また私は被爆した少女が 白血病で亡くなるまでに1001羽の折鶴を折ったと聞き、感動しました。 私がその時そこに居合わせたらどんなことになっていたか、想像もつきません。 忘れようにも忘れられない恐怖を体験したことでしょう。私は日本へ帰り、そして 広島を訪れてみようと計画しています。 私には被爆者の叔母が一人おりますが 今日まで健在です。 ハワイより Norine Kikue Ishii |