WWWへの再掲載によせて1996年6月20日、寺尾武治先生は永眠されました。 先生は20才の時に原爆を体験され、それから51年、深い心の傷と放射能による身体への不安を背負い生きてこられました。 私が20年前に先生の授業を受けていたときも、COARAでのオフラインミーティングのときも、そんなことを少しも感じさせない、本当に優しい暖かい笑顔で私達と接してくれていました。 5年前の8月、先生が淡々と「原子爆弾による被爆の話」をはじめられたときの私達COARAメンバーの衝撃は、本文にあるとおりです。 この寺尾先生の体験談の前年、ちょうど湾岸戦争の頃、本文にも登場いたしました浦塚政子さんの学徒動員時代の体験談をCOARA上で接することができ、戦争を体験された方が、戦争に対してどんなに心の痛みをお持ちなのか知ることができました。 また、寺尾先生の話の後も、1991年には、芦刈さん、川辺さんも戦争体験記をCOARAに書き残していただき、COARAの多くの若者が真剣にその話を読み、レスポンスを返した年でありました。 先生の書かれた文章の中より もうごめんです。生きた地獄なんて見たくありません。 最後に一言、物資の豊富な好きなことの言える平和な世の中になりま した。「生きているのが不思議です」生かされているのでしょう。感謝の気持だけです。不平も不満もありません。社会からうけた恩恵に感謝し、いつか社会にお返しがしたいものです。 ホ−ッとしました。 三回にわたって、広島原爆による被爆体験の話しを書き込みました。 ああ、あれから46年目ですか。平和の有難さに感謝しています。 二度と繰り返さないで下さい。今日まで生かしていただきました。世 間にかりた借りを、何らかの方法でお返しできたら嬉しいです。 あまりの反響の大きさに驚いています。 でも、少しでも実情を知っていただけ、今ではやはり書き込んで良か ったなあと思うと共に、46年の歳月、自分の勇気のなさが情け無く 感じられました。
再び叫びます「こんなことが二度とあってはなりません」 私達は、いろんなメディアで「戦争体験談」を聞くことはありました。 先生がお亡くなりになった今、先生の「辛いけれども、次の世代に伝えなければいけない」という御意志を御遺志としてWWW上に掲げました。少しでも多くの人に、先生のご遺志が伝わりますよう願っております そして、インターネットを核にしてやがて到来しようとしているハイパーネットワーク社会の先駆けとしてあった、「パソコン通信」という双方向性のあるグループメディア。その双方向性コミュニケーションのなかで生まれたこの「活きた情報」による感動は、新しい情報社会に向けてのモニュメントとしても残さなければいけないと考えております。 |